第31話 肩が触れそうな距離
その日の放課後。
恋満(ロマン)は、朝からずっと少しだけ落ち着かなかった。
理由は分かっている。
校門の前で交わした約束。
「放課後、またここで」
信太朗の声が、何度も頭の中で繰り返されていた。
朝は一緒に登校した。
しかも今日は、今まで知らなかったことまで知った。
信太朗も、自分に会えるかもしれないと思って、早く家を出たことがある。
偶然だと思っていた朝の中に、信太朗の気持ちがあった。
それを思い出すたびに、恋満(ロマン)の胸は温かくなった。
授業中。
先生の声を聞きながら、恋満(ロマン)はノートを取っていた。
でも、ときどき手が止まる。
朝の信太朗の言葉を思い出してしまう。
「会えるかもしれないと思って、早く出た日がある」
たったそれだけ。
でも恋満(ロマン)には、それが何より嬉しかった。
自分だけじゃなかった。
会いたいと思っていたのは。
自分だけじゃなかった。
信太朗も同じだった。
それを知ってから、恋満(ロマン)は信太朗のことを前より意識するようになっていた。
廊下ですれ違うかもしれない。
校庭にいるかもしれない。
窓の外から見えるかもしれない。
そんなことばかり考えてしまう。
昼休み。
恋満(ロマン)が窓の外を見ていると、友達が隣に来た。
「また見てる」
恋満(ロマン)は慌てて振り返った。
「何を?」
友達はにやりと笑う。
「さあ、何だろうね」
「何も見てないよ」
「ふーん」
恋満(ロマン)は顔をそらした。
友達は少しだけ笑ってから、窓の外を見る。
「今日も一緒に帰るの?」
恋満(ロマン)の動きが止まった。
「……どうして分かるの?」
「顔」
「顔?」
「朝からずっと楽しそう」
「そんなことないよ」
「あるよ」
恋満(ロマン)は少しだけ頬を押さえた。
自分では普通にしているつもりだった。
でも、信太朗と約束しただけでそんなに顔に出るのだろうか。
「約束したの?」
友達が聞く。
恋満(ロマン)は少し迷った。
でも、隠すのも変な気がした。
「……うん」
小さく答える。
友達の目が少し大きくなった。
「へえ」
「なに」
「いや、ついに偶然じゃなくなったんだなって」
その言葉に、恋満(ロマン)の胸がまた跳ねた。
偶然じゃない。
今朝、自分でも同じことを思った。
恋満(ロマン)は窓の外を見た。
「……うん」
友達はそれ以上からかわなかった。
ただ少しだけ優しい顔で言った。
「よかったね」
恋満(ロマン)は返事をしなかった。
でも、小さく笑った。
そして放課後。
終業のチャイムが鳴る。
恋満(ロマン)は、今度こそ慌てすぎないように帰り支度をした。
でも、やっぱり少し早くなってしまう。
教科書を鞄に入れる。
筆箱をしまう。
椅子を戻す。
「じゃあ、また明日」
友達に声をかける。
「うん。いってらっしゃい」
「だから、帰るだけだって」
「はいはい」
恋満(ロマン)は少し顔を赤くして教室を出た。
廊下を歩く。
階段を下りる。
下駄箱へ向かう。
靴を履き替えて外へ出る。
校門を見る。
信太朗は、まだいなかった。
恋満(ロマン)は少しだけ立ち止まった。
時計を見る。
約束の時間より、まだ少し早い。
「……私が早かっただけか」
そうつぶやいて、校門の近くで待つことにした。
でも、ただ立っているのも落ち着かない。
スマホを見る。
画面を閉じる。
また見る。
意味もなく時間を確認する。
一分。
二分。
信太朗はまだ来ない。
恋満(ロマン)は少しだけ不安になった。
用事ができたのかな。
先生に呼ばれたのかもしれない。
友達と話しているのかもしれない。
約束したのに。
そう思った瞬間、自分で驚いた。
約束したのに。
そんなふうに思うようになった自分が、少し恥ずかしかった。
今までは、会えなくても仕方ないと思っていた。
でも今は違う。
会えると思っている。
待っている。
そして、会えないと不安になる。
恋満(ロマン)は胸の前で鞄の持ち手を握った。
そのとき。
「恋満(ロマン)」
聞き慣れた声がした。
恋満(ロマン)はすぐに振り返った。
信太朗が少し早足で歩いてくる。
「ごめん」
信太朗は恋満(ロマン)の前で止まった。
少しだけ息が乱れている。
恋満(ロマン)は驚いた。
「走ってきたの?」
「少し」
「どうして?」
「遅れたから」
恋満(ロマン)は時計を見た。
まだ約束の時間を一分も過ぎていない。
「遅れてないよ」
「でも、待ってただろ」
恋満(ロマン)は何も言えなかった。
確かに待っていた。
しかも、少しだけ寂しくなっていた。
信太朗は息を整えながら続ける。
「先生に呼ばれてた」
「そうだったんだ」
「連絡しようと思ったけど」
「大丈夫だよ」
恋満(ロマン)は小さく笑った。
「来てくれたから」
言ったあとで、自分の言葉に少し照れた。
信太朗も黙った。
そして、ほんの少しだけ目をそらした。
「……うん」
それだけ答える。
ふたりは並んで歩き出した。
夕方の道。
昨日と同じ。
朝とも同じ。
でも、恋満(ロマン)には少し違って感じられた。
今日は信太朗を待った。
信太朗は、待たせたくないと思って少し走ってきた。
その小さな出来事だけで、ふたりの関係が少しだけ近くなった気がした。
しばらく歩く。
恋満(ロマン)は隣の信太朗をちらりと見る。
信太朗はいつものように前を向いている。
でも、さっき走ってきたせいか、前髪が少し乱れている。
恋満(ロマン)は思わず笑った。
「なに」
信太朗が気づく。
「ちょっと髪、乱れてる」
「……そうか」
信太朗は片手で髪を直そうとした。
でも、うまく直っていない。
恋満(ロマン)はまた少し笑う。
「そこじゃないよ」
「どこ」
「こっち」
恋満(ロマン)は自分の前髪のあたりを指で示す。
信太朗も真似する。
でも、やっぱり違う。
「そこじゃないって」
「分からない」
「もう」
恋満(ロマン)は笑った。
そして。
自然に。
本当に自然に。
手を伸ばしかけた。
信太朗の前髪を直そうとして。
恋満(ロマン)の指が、信太朗の顔の近くまでいく。
その瞬間。
ふたりとも止まった。
近い。
思っていたより、ずっと近い。
恋満(ロマン)の指先と、信太朗の額。
あと少し。
触れそうで、触れない距離。
恋満(ロマン)は急に心臓が速くなるのを感じた。
何をしようとしたんだろう。
信太朗の髪に触れようとした。
自分から。
恋満(ロマン)は慌てて手を引いた。
「ご、ごめん」
信太朗も少し驚いた顔をしている。
「いや」
「その、髪を直そうと思って」
「うん」
「でも、なんか」
恋満(ロマン)は何を言えばいいのか分からなくなった。
信太朗も同じようだった。
ふたりは少し黙る。
恋満(ロマン)は顔が熱かった。
触れればよかったのかもしれない。
でも、触れたらきっと、もっと恥ずかしかった。
信太朗は前を向いた。
そして小さく言った。
「……別に、嫌じゃなかった」
恋満(ロマン)は足を止めそうになった。
「え?」
信太朗は恋満(ロマン)を見ない。
「髪」
「髪?」
「直すの」
恋満(ロマン)の胸が大きく鳴った。
嫌じゃなかった。
それは、触れてもよかったという意味だろうか。
恋満(ロマン)は何も言えない。
信太朗もそれ以上言わない。
ふたりはまた歩き始めた。
でも今度は、さっきより少しだけ距離が近かった。
肩が触れそう。
手も近い。
恋満(ロマン)は意識しないようにしようとした。
でも、意識しない方が無理だった。
信太朗の手が、すぐ近くにある。
歩くたびに少し揺れる。
自分の手も同じように揺れる。
ときどき。
本当に少しだけ。
指先の距離が近くなる。
でも触れない。
恋満(ロマン)はその距離が気になって仕方なかった。
信太朗も、きっと気づいている。
そう思う。
でも、どちらも何もしない。
少し風が吹いた。
恋満(ロマン)の髪が揺れる。
また顔にかかる。
以前なら、信太朗は手を伸ばしかけて止めていた。
今日も。
信太朗の手が少し動いた。
恋満(ロマン)は気づいた。
信太朗も気づかれたことに気づいた。
また止まる。
恋満(ロマン)は小さく笑った。
「今、何しようとしたの?」
「……別に」
「また別に」
「何もしてない」
「しようとはしたでしょ」
信太朗は黙った。
恋満(ロマン)は少しだけ意地悪な気持ちになった。
「髪?」
信太朗は少しだけ目をそらした。
「……顔にかかってたから」
恋満(ロマン)は胸が熱くなった。
やっぱり。
以前も同じことがあった。
そのときは、お互いに何もできなかった。
恋満(ロマン)は少しだけ迷った。
でも。
今日は昨日より近づいた朝だった。
さっきも、信太朗は「嫌じゃなかった」と言った。
恋満(ロマン)は小さく息を吸った。
「じゃあ」
信太朗を見る。
「取って」
信太朗が止まった。
「え?」
「髪」
恋満(ロマン)は顔が熱くなるのを感じながら言った。
「かかってるなら」
信太朗は何も言わない。
恋満(ロマン)も動かない。
夕方の道。
風。
遠くを走る車の音。
ふたりの間だけ、時間が止まったようだった。
信太朗はゆっくり手を上げた。
恋満(ロマン)は動けなかった。
信太朗の指先が近づく。
頬の近く。
髪。
そして。
ほんの少しだけ。
信太朗の指が、恋満(ロマン)の髪に触れた。
顔にかかっていた一本の髪を、そっと横へよける。
たったそれだけ。
ほんの一瞬。
でも恋満(ロマン)の心臓は、今までで一番大きく鳴った。
信太朗はすぐに手を離した。
「……取れた」
恋満(ロマン)は少し遅れて答えた。
「ありがとう」
声が小さくなった。
ふたりとも前を向く。
でも顔が赤い。
何も言えない。
恋満(ロマン)は、自分の頬の近くにまだ信太朗の指の感覚が残っているような気がした。
本当は、触れたのは髪だけ。
肌には触れていない。
それなのに。
胸が苦しいほど嬉しかった。
ふたりはしばらく無言で歩いた。
その沈黙は、今までで一番長かった。
でも、嫌ではなかった。
むしろ、何かを言えば壊れてしまいそうだった。
公園が見えてくる。
信太朗が聞いた。
「今日も寄るか」
恋満(ロマン)は少し迷った。
本当は寄りたい。
もっと一緒にいたい。
でも、このままだと心臓がもたない気もした。
「……少しだけ」
「うん」
ふたりは公園へ入った。
いつものベンチ。
昨日、ミルクティーを飲んだ場所。
並んで座る。
でも今日は、昨日より少し距離が近かった。
それに気づいた恋満(ロマン)は、また緊張した。
肩が触れそう。
信太朗の手も近い。
ふたりとも前を向いている。
しばらく何も話さなかった。
恋満(ロマン)が先に口を開いた。
「ねえ」
「うん」
「信太朗くんって」
少し迷う。
「人に触るの、苦手?」
信太朗は少し考えた。
「……分からない」
「分からない?」
「今まで、あまり考えたことない」
「そっか」
恋満(ロマン)は少しだけ安心したような、少しだけ寂しいような気持ちになった。
すると信太朗が続けた。
「でも」
恋満(ロマン)が見る。
「さっきは、嫌じゃなかった」
まただ。
信太朗は、こういうことを何気なく言う。
恋満(ロマン)は顔を赤くした。
「髪の話?」
「……うん」
「本当に?」
信太朗は黙った。
恋満(ロマン)は少し笑った。
「今の間、なに?」
「別に」
「また」
ふたりは少しだけ笑った。
でも恋満(ロマン)の胸には、信太朗の言葉が残っていた。
嫌じゃなかった。
それは、小さな言葉。
でも恋満(ロマン)には十分だった。
触れること。
近づくこと。
それを信太朗が嫌だと思っていない。
その事実が嬉しかった。
しばらくして、恋満(ロマン)はベンチの上に手を置いた。
信太朗の手の近く。
あと少し。
本当に少し。
動かせば触れる。
恋満(ロマン)は自分の手を見つめた。
信太朗も気づいている。
でも、どちらも動かない。
触れそう。
でも触れない。
その距離が、今のふたりそのものだった。
友達より近い。
恋人より遠い。
好きに近い。
でも、まだ好きと言えない。
恋満(ロマン)は小さく息を吐いた。
「もどかしいな」
信太朗が見る。
「何が」
恋満(ロマン)は少し笑った。
「なんでもない」
「気になる」
「気にしなくていいの」
「……そうか」
信太朗はそれ以上聞かなかった。
でも。
少しして。
信太朗の手が、ほんの少しだけ動いた。
恋満(ロマン)の手との距離が近くなる。
あと少し。
指先が触れそう。
恋満(ロマン)は動けなかった。
信太朗も動かない。
ふたりとも、きっと同じことを考えていた。
触れてもいいのかな。
嫌じゃないかな。
このままでもいいのかな。
夕方の風が吹いた。
木々が揺れる。
遠くで子どもたちの声が聞こえる。
そして。
その瞬間。
公園の中を自転車が通り過ぎた。
恋満(ロマン)は少し驚いて、手を動かした。
信太朗も同時に手を引いた。
結局。
触れなかった。
恋満(ロマン)は少しだけ残念だった。
でも、信太朗も同じように見えた。
ふたりは顔を見合わせる。
そして、少しだけ笑った。
「……帰るか」
信太朗が言う。
「うん」
ベンチから立ち上がる。
恋満(ロマン)は歩きながら思った。
今日は、触れなかった。
手はつながなかった。
でも。
髪には触れた。
昨日より。
朝より。
少しだけ近づいた。
それだけでいい。
今はまだ。
帰り道。
ふたりは並んで歩いた。
肩が触れそうな距離。
今度は、どちらも少し離れなかった。
恋満(ロマン)は前を向きながら、心の中で思う。
いつか。
いつか、この距離がなくなる日が来るのかな。
そのとき。
私たちは、どんな関係になっているんだろう。
信太朗の手は、今日もすぐ近くにあった。
でも。
まだ触れない。
その数センチが。
たまらなく遠くて。
たまらなく愛おしかった。
第30話 偶然じゃなくなった朝
翌朝。
恋満(ロマン)は、目覚ましが鳴る少し前に目を覚ました。
まだ部屋の中は薄暗い。
カーテンの隙間から、青白い朝の光が細く差し込んでいる。
枕元のスマホを見る。
午前四時五十六分。
目覚ましが鳴るまで、あと四分。
恋満(ロマン)は布団の中でしばらく画面を見つめた。
いつもなら、あと四分も眠れると思うところだった。
でも今日は違う。
もう眠れそうになかった。
昨日の帰り道。
公園のベンチ。
二本のミルクティー。
そして、信太朗と交わした約束。
「……約束」
「うん」
「明日も、朝、一緒に行くか」
「うん。一緒に行こう」
その会話を思い出しただけで、恋満(ロマン)の胸が少し温かくなる。
今日の朝は、今までとは違う。
これまでも、何度も同じ曲がり角で会った。
でもそれは、いつも少し曖昧だった。
たまたま早く家を出た。
なんとなく同じ時間になった。
偶然会った。
ふたりとも、そういうことにしていた。
でも今日は違う。
今日は、会うと決めた。
信太朗が来ることを知っている。
信太朗も、恋満(ロマン)が来ることを知っている。
恋満(ロマン)は布団の中で、小さく笑った。
その瞬間。
ピピピピ、ピピピピ。
午前五時。
目覚ましが鳴る。
恋満(ロマン)はすぐに止めた。
「あ〜……よく寝た」
いつもの言葉。
でも今日は、そのあとにもうひとつ続いた。
「……起きよ」
恋満(ロマン)は勢いよく布団から出た。
洗面所へ向かい、顔を洗う。
冷たい水に触れると、少しだけ頭がすっきりした。
鏡を見る。
いつもの自分。
でも今日は、いつもより少しだけ顔が嬉しそうに見える。
恋満(ロマン)は前髪を整えた。
一度。
そして、もう一度。
少し右へ。
やっぱり戻す。
「……何やってるんだろ」
自分でそう言って、少し笑った。
信太朗に会うだけ。
何度も会っている。
昨日も一緒に帰った。
それなのに、なぜ今日はこんなに緊張するのだろう。
理由は分かっていた。
今日は偶然ではないから。
信太朗は、恋満(ロマン)に会うために来る。
恋満(ロマン)も、信太朗に会うために行く。
その事実を意識すると、いつもの朝が特別に変わってしまう。
制服に着替える。
襟を整える。
鞄の中を確認する。
教科書。
ノート。
筆箱。
スマホ。
ハンカチ。
全部そろっている。
恋満(ロマン)は玄関で靴を履いた。
家を出る前に、もう一度スマホを見る。
約束の時間にはまだ少し早い。
でも、もう待っていられなかった。
「……ちょっと早いくらい、いいよね」
恋満(ロマン)は玄関を出た。
朝の空気が頬に触れる。
少し冷たい。
けれど、気持ちがいい。
空はまだ淡い青色だった。
東の方が少しだけ明るくなっている。
鳥の声。
遠くを走る車の音。
住宅街はまだ静かだった。
恋満(ロマン)は、いつもの道を歩く。
でも今日は、足取りが少し速い。
急いでいると思われたくなくて、途中で少しだけ速度を落とす。
そしてまた、早くなる。
自分でもおかしくなって、恋満(ロマン)は小さく笑った。
「落ち着いて、私」
曲がり角が近づく。
胸の音が少しずつ大きくなる。
もしかしたら、まだ来ていないかもしれない。
恋満(ロマン)の方が早いかもしれない。
そうしたら、少し待とう。
信太朗も昨日、「俺も待つ」と言った。
その言葉を思い出して、また胸が温かくなる。
恋満(ロマン)は曲がり角を曲がった。
そして、足を止めた。
信太朗は、もうそこにいた。
いつもの場所。
道端。
鞄を肩にかけて、静かに立っている。
恋満(ロマン)に気づくと、信太朗は顔を上げた。
「……おはよう」
恋満(ロマン)は少し驚いた。
「おはよう」
そして、すぐに聞いた。
「早くない?」
信太朗は少し目をそらす。
「そうか?」
「うん。だって、まだ約束の時間より早いよ」
信太朗は黙った。
恋満(ロマン)は少し笑う。
「何分前からいたの?」
「……そんなに前じゃない」
「何分?」
「少し」
「少しって?」
信太朗は答えなかった。
その沈黙で、恋満(ロマン)にはだいたい分かった。
きっと、自分より早く来たかったのだ。
待たせたくなかったのかもしれない。
それとも。
少しでも早く会いたかったのかもしれない。
そこまで考えて、恋満(ロマン)は急に恥ずかしくなった。
「……私も、ちょっと早く来たんだけどね」
信太朗が恋満(ロマン)を見る。
「そうなのか」
「うん」
「どうして」
恋満(ロマン)は一瞬、言葉に詰まった。
どうして。
答えは簡単だった。
会いたかったから。
でも、そんなことは言えない。
恋満(ロマン)は視線をそらした。
「なんとなく」
信太朗は小さく言う。
「……俺も」
恋満(ロマン)は思わず信太朗を見る。
信太朗はもう前を向いていた。
それ以上は何も言わない。
でも恋満(ロマン)の胸には、その短い言葉が残った。
俺も。
何が同じなのか。
少し早く来たこと。
なんとなく来たこと。
それとも。
会いたかったこと。
恋満(ロマン)は聞けなかった。
ふたりは並んで歩き出した。
朝の通学路。
昨日までと同じ道。
同じ家。
同じ花壇。
同じ坂道。
でも、今日は違って見えた。
偶然ではない。
ふたりとも、相手に会うためにこの場所に来た。
その意識があるだけで、隣を歩く距離まで少し変わった気がする。
恋満(ロマン)は信太朗との距離を意識した。
近い。
昨日より少し近い。
肩が触れそうで、触れない。
手を下ろせば、信太朗の手はすぐ近くにある。
もちろん、触れるつもりはない。
でも、近い。
それだけで落ち着かない。
恋満(ロマン)は少しだけ道路側へ寄った。
すると、信太朗が言った。
「そっち、危ない」
「え?」
信太朗は自然に、自分が道路側へ移動した。
恋満(ロマン)は歩道の内側になる。
あまりにも自然な動きだった。
「……ありがとう」
「別に」
恋満(ロマン)は思わず笑う。
「また言った」
「何が」
「別に」
信太朗は少し黙る。
「……癖だから」
「禁止って言ったのに」
「無理だった」
「早いね、諦めるの」
前にもした会話。
でも今日は、少し違う。
同じ言葉なのに、懐かしい感じがした。
ふたりだけが知っている会話が増えていく。
それが恋満(ロマン)は嬉しかった。
しばらく歩くと、道端に小さな花が咲いていた。
以前、恋満(ロマン)が立ち止まった場所。
朝露が花びらに残っている。
恋満(ロマン)が見つめると、信太朗も足を少し緩めた。
「今日も見てるな」
「だって、きれいだから」
「毎日見ても?」
「毎日少しずつ違うよ」
「そうなのか」
「うん」
恋満(ロマン)はしゃがみ込まず、歩きながら花を見る。
信太朗も同じ方向を見る。
少しして、恋満(ロマン)が言った。
「信太朗くんって、前より花見るようになったね」
「……そうか?」
「うん」
「恋満(ロマン)が見るから」
恋満(ロマン)の足が一瞬止まりそうになった。
「私が?」
「うん」
「どうして?」
信太朗は少し考える。
「何を見てるのか、気になるから」
恋満(ロマン)の胸が大きく鳴った。
まただ。
信太朗は、何気なくこういうことを言う。
好きとは言わない。
でも、恋満(ロマン)の見ているものを見たいと言う。
恋満(ロマン)の好きなものを気にする。
それは、どういう意味なのだろう。
聞きたい。
でも聞いたら、信太朗はきっと困る。
恋満(ロマン)は少しだけ頬を赤くして言った。
「……信太朗くんって、やっぱりずるい」
「また?」
「うん」
「何もしてない」
「それがずるいの」
信太朗は理解できないような顔をしていた。
本当に分かっていないのかもしれない。
そのことが、さらにずるかった。
坂道に入る。
恋満(ロマン)は少し息を吐いた。
信太朗は自然に歩く速さを落とす。
恋満(ロマン)はすぐに気づいた。
「また合わせてる」
「……何が」
「歩く速さ」
「気のせい」
「絶対違う」
「違わない」
「どっち?」
「……分からない」
恋満(ロマン)は笑った。
信太朗もほんの少しだけ口元を緩める。
その笑顔を見た瞬間。
恋満(ロマン)は思った。
あ。
好きかもしれない。
昨日もそう思った。
その前も思った。
でも今日は、少し違った。
好きかもしれない。
ではなく。
もう、好きなんだと思う。
でも。
恋満(ロマン)は、その気持ちをすぐに胸の奥へ戻した。
今はまだ言わない。
今日の朝は、初めて約束して会った朝。
それだけで十分。
焦らなくてもいい。
そう自分に言い聞かせる。
学校が近づく。
生徒の姿が増えていく。
友達同士で歩く人たち。
自転車を押している人。
眠そうにあくびをしている人。
その中に、恋満(ロマン)と信太朗もいる。
恋満(ロマン)は少しだけ周りの視線が気になった。
昨日までは、偶然一緒に歩いているだけと言えた。
でも今日は、約束して一緒に来た。
それを誰かに聞かれたら、どう答えればいいのだろう。
考えていると、信太朗が言った。
「どうした」
「え?」
「さっきから静かだから」
恋満(ロマン)は少し驚いた。
信太朗は、自分が静かなことに気づいた。
その事実が少し嬉しい。
「なんでもない」
「本当に?」
「うん」
恋満(ロマン)は少し笑ってから言った。
「ちょっとだけ考えてた」
「何を」
「私たち、今日ちゃんと約束して一緒に来たんだなって」
信太朗は少し黙る。
「……そうだな」
「今までは、たまたまだったのにね」
「たまたまじゃなかった日もある」
恋満(ロマン)は足を止めそうになった。
「え?」
信太朗は前を向いたまま歩いている。
恋満(ロマン)は追いつく。
「どういう意味?」
「別に」
「また別にって言った」
「……」
「たまたまじゃなかった日もあるって?」
信太朗はしばらく答えなかった。
恋満(ロマン)は横から顔をのぞき込む。
信太朗は少し耳が赤くなっていた。
そして、小さく言った。
「早く出た日があった」
恋満(ロマン)の胸が鳴る。
「どうして?」
信太朗は答えない。
恋満(ロマン)は、もう一度聞いた。
「私に会うため?」
信太朗の足が少し止まった。
恋満(ロマン)は、自分で聞いてから後悔した。
直接すぎた。
「ご、ごめん。今のなし」
信太朗は黙っていた。
恋満(ロマン)は恥ずかしくなって前を向く。
すると。
「……うん」
小さな声が聞こえた。
恋満(ロマン)は信太朗を見る。
「え?」
信太朗は前を向いたまま言う。
「会えるかもしれないと思って、早く出た日がある」
恋満(ロマン)は何も言えなくなった。
信太朗も、それ以上言わなかった。
朝の音だけが聞こえる。
鳥の声。
自転車のベル。
風に揺れる木々。
恋満(ロマン)の心臓の音。
会いたいと思っていたのは、自分だけじゃなかった。
偶然だと思っていた朝の中に、信太朗の小さな意志があった。
その事実が、恋満(ロマン)には何より嬉しかった。
「……私も」
恋満(ロマン)が言う。
信太朗が見る。
恋満(ロマン)は少しだけ照れながら続けた。
「早く出た日、あるよ」
信太朗の表情が少し変わった。
驚いたような。
嬉しいような。
でも、すぐにいつもの顔に戻る。
「そうか」
「うん」
「……よかった」
「何が?」
「同じで」
その言葉に、恋満(ロマン)の胸がいっぱいになった。
昨日も。
今日も。
ふたりは「同じ」を確認している。
同じように会いたかった。
同じように一緒に帰りたかった。
同じように、また会いたいと思っていた。
でも。
好きという言葉だけは、まだ言わない。
校門が見えてくる。
いつもの場所。
ふたりがそれぞれの教室へ向かう場所。
恋満(ロマン)は少しだけ寂しくなった。
昨日までは、ここで別れるだけだった。
でも今日は。
「放課後」
信太朗が先に言った。
恋満(ロマン)が見る。
「うん」
「約束、覚えてるか」
恋満(ロマン)は笑った。
「もちろん」
「じゃあ」
信太朗は少しだけ目をそらす。
「また、ここで」
その言葉に、恋満(ロマン)は頷いた。
「うん。またここで」
ふたりは別れた。
恋満(ロマン)は教室へ向かって歩き出す。
数歩進んでから、少しだけ振り返った。
信太朗も、ちょうど振り返っていた。
目が合う。
昨日と同じ。
でも今日は、少しだけ違う。
恋満(ロマン)は小さく手を振った。
ほんの少し。
信太朗は一瞬驚いたあと、少しだけ手を上げた。
それだけだった。
でも恋満(ロマン)は嬉しくて、すぐに前を向いた。
顔が熱い。
心臓が速い。
教室へ向かいながら、恋満(ロマン)は小さくつぶやいた。
「……もう偶然じゃないんだ」
会いたいと思って会う。
一緒にいたいと思って約束する。
次に会う時間を決める。
それはまだ、恋人ではない。
でも、ただの友達とも少し違う。
ふたりの朝は、今日から変わった。
たまたま会う朝ではなく。
会うために向かう朝になった。
恋満(ロマン)は胸に手を当てた。
その中には、昨日より少し大きくなった気持ちがある。
まだ言葉にはしない。
でも、もう知らないふりもできない。
信太朗と恋満(ロマン)の恋は。
偶然ではなく。
ふたり自身の意思で。
ゆっくりと始まり始めていた。